もともと歩くことが好きで、普段からよく歩くのだが、何か目的があるともっと歩くことが楽しくなると思い、この「 北摂古墳巡り」のコンテツを作った。
今から数十年前、中学生の頃、友人のK氏に連れられ、自転車で自宅近くの古墳によく行ったものだ。
友人のK氏は考古学が好きで大人になったときにその業界で働いた。
その後、友人のK氏はふいに他界してしまった。
そんなこともあり、いつか暇が出来たらK氏を偲んで古墳巡りをしようと思っていた。
高槻市から茨木市にかけて広がっている三島古墳群(みしまこふんぐん)は、3世紀中頃から7世紀中頃にかけて北摂山地の南斜面の山腹部から丘陵部またはそこから派生する段丘部に大小様々な約800基ほどの古墳が密集・点在している古墳密集地域である。
一口に古墳といっても多種多様であり、宮内庁や地元の教育委員会などにより手厚く保護されているものから、ほとんど野ざらし状態で宅地造成や田園開墾などで破壊され原型をかろうじて残す程度のものまで実に様々であり、これらを探して歩くことは私にとって実に楽しい経験となった。
古墳時代における当時の大和政権下での地方領主(豪族)達の支配体系や領地はどのようになっていたのであろうか。
ひとつ考えられるのは河川を境にしていたのではないだろうか。
現在三島古墳群には東から桧尾川、芥川、女瀬川、安威川、茨木川の5つの河川があり、いずれの河川も南の大河淀川に流れこんでいる。
北摂山地を源としたこの5河川は肥沃な扇状地を形成し、東から高槻丘陵、奈佐原丘陵、そして福井丘陵があり、三島古墳群に点在する古墳はそのほとんどがこの3つの丘陵部の山腹、丘陵部、段丘部に点在している。
時代の推移により平地に降りてくるものや、また山腹部に移行したりと様々である。
当時の川の位置は現代とは異なるかもしれないが、概ね水の流れとは自然の高低差より起こるもので、恐らく古墳時代にもほぼ同じ場所を流れていたに違いない。
当時の人にとって川は人々の生活の基盤であり、糧であり、様々な産業や農耕においても欠かすことのできない存在であったことは言うまでも無い。
古墳時代には川に橋を架ける技術は恐らくほとんど皆無だったに違いなく、容易に川を渡ることができない。
川が支配域の境界になっていたのは自然の流れのことではないのだろうか。
三島古墳群のなかで最古の古墳である安満宮山古墳が3世紀中頃の築造の長方形墳で一番新しいものが阿武山古墳(7世紀前半~後半)とされており、この時代は大和政権の律令により、もうほとんど巨大な前方後円墳は造られなくなり、いわゆる巨大古墳時時代の終末期と呼ばれる時代である。
太田茶臼山古墳は三島古墳群の中では最大の規模を誇り、継体大王の墳墓と目されているが築造年代とされる5世紀の初頭は全国的にみてもこの規模の古墳が数多く築造されており、特別大きいという印象は受けない。しかし先に述べたように三島古墳群の中では他の古墳と規模を比較するにあたり突出した存在であることには違いなく、少なからずも三島全体の王か或いはそれに次ぐ人物の墳墓と思われる。
次に富田台地のほぼ中央部に位置する今城塚古墳の存在である。
この古墳が造られた6世紀の初頭は全国的に巨大古墳の収縮期にあたり、三島古墳群の中でも同時代に造られた古墳はみな小さくなっていく中、この古墳だけは、直径190m、総幅約340mと壮大な規模と様式を有している。
同時期淀川流域で最大の前方後円墳である。
先にも述べたように巨大古墳の収縮期から考えてみるに、そこには全てを超越した絶対的な人物像が浮かび上がってくる。
三島平野に展開する三島古墳群は3世紀中頃から継続的に営まれてきた巨大古墳築造はやがて縮小していき、7世紀の中頃には姿を消すことになる。
大和政権の衰退か或いは律令によるものなのかは解らないが、それに伴い古墳作りに必要だった埴輪製造工場の新池遺跡なども、その役割を果たし終わりを告げることになる。
全てのものに終わりがあるように。
地元の高槻市・茨木市の三島古墳群を出来うる限り歩いて巡った。
もちろん場所によっては電車やバスなどの公共交通機関を利用したが、基本的に歩いて巡った。
太古の昔にここで人々が暮らし、生き、そして古墳を作った事実に思いをはせ、このコンテンツを綴っていこうと思う。
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