古墳の所在地 | 大阪府高槻市岡本33 |
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古墳の形状 | 帆立貝形古墳 |
規模 | 全長95m |
築造年代 | 古墳時代中期(5世紀) |
副葬品 | 倭製鏡片、鉄刀、埴輪 |
被葬者 | この地域を支配していた有力豪族(推定) |
前塚古墳は今城塚古墳から道路を隔てて北西にある。
奈佐原丘陵部に位置する古墳群では最後の中型古墳であり、ほぼ平野部に築造されているのが特徴である。
墳丘の大きさはおよそ64m、高さ7m。
一見すると円墳のように見えるのは宅地造成などにより南側の前方部が削り取られているためである。
測量調査によると、かつては周濠をもつ全長約95mの帆立貝形前方後円墳であったようで、結構な規模を備えた古墳であったようだが、現在では後円部のみが残っている状態で南西側の前方部は駐車場になっている。
ここから出土した埴輪は後円部から円筒埴輪、墳頂部からは家形埴輪が見つかっており、他の場所からも朝顔形、蓋形、動物形などの埴輪が見つかっている。
周濠は墳丘に沿って掘られていたようであるが、この古墳の周濠の特徴的なものに前方部の先端部が内側に狭ばまっていたようである。(図1)
実際に訪れてみると交通量の多い道路沿いにぽつんと樹木が密生した小山があり、それ自体なんだか違和感がある。これまでの古墳の所在地は比較的奥まったところにあったり、山の上にあったりと見つけるのに結構苦労するのがほとんどで、実際に訪れてみるとちょっと寂しいところが多いのだが、この前塚古墳の場合は比較的交通量の多い幹線道路に通じる道路のすぐ脇にあり、まったく寂しさようなものは感じられなかった。まあ、どうでもいい話だが。
古墳西側の前方部は駐車場となっており無惨にも削り取られている。
墳丘への立ち入りが容易にできるため、時には子ども達の遊び場になったであろうし、永年の風雨に晒され続け、また人の手によっても古墳は破壊され続け、見ていると何だか痛々しい思いがする古墳である。
墳丘部には他の古墳と同様に樹木が生い茂っているが頂上部中央よりやや西側に明らかに日本古来の樹木ではない木がこれまた堂々と生えている。風に乗り種が飛んできたのか。それとも誰かが植えたのか。
この古墳を見た時に違和感を覚えたのはそのためだろうか。
これまでこの古墳はここより道路を挟んで南東側に位置する今城塚古墳(第26代継体天皇(推定))の陪塚(ばいちょう)ではないかと考えられていたが、副葬品などの年代測定やその後の調査により、この古墳の築造年代が古墳時代中期(5世紀)とわかり、今城塚古墳築造より以前の築造と考えられている。
ここから北東へ少し行ったところに郡家車塚古墳がある。距離的にもまた築造年代的にも前塚古墳と郡家車塚古墳の被葬者は何らかの血縁関係があったのではあるまいか。
ここから出土した石棺は現在、大阪府立近つ飛鳥博物館に保管展示されている。
この古墳の被葬者についてはいろいろと調べてみたものの、ほとんどの古墳時代に築造された古墳同様に全く解らない。
おそらくこのあたり一体を支配していた有力豪族の古墳と推定されるが、実際のところ全く解っていない。
現在では住宅もまばらなこの地域に一大勢力があったのだろうか。
古墳の形状は正確には帆立貝形古墳(ほたてがいけい)といい通常の前方後円古墳より前方部が細くなっており、ちょうど帆立貝のような形からこの名前になっている。
この帆立貝形古墳は一種の流行りなのか、それともヤマト王権時代の律令制に基づく被葬者の身分的なもので制約があったのか定かではないが、当然古墳築造の際にどんな形にするかを議論したはずで、被葬者の身分的な事情であるならば帆立貝形前方後円墳の被葬者はみな同じくらいの身分ということになり、また年代的な流行なものであれば、自由に古墳の形状を決めることができたのではないのだろうか。
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JR東海道線(京都線)「摂津富田」駅下車。 高槻市営バス 72番のりば 南平台経由奈佐原行 今城塚古墳前下車。 |