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柴谷古墳(しばたにこふん)

柴谷古墳のイメージ01

古墳の所在地 大阪府高槻市芝谷町4
古墳の形状 前方後円墳
規模 全長約40m
築造年代

4世紀末頃

副葬品 埴輪片など
被葬者 裏堂一帯を治めていたの有力者


概要

柴谷古墳のイメージ02芝谷古墳前バス停で下車すると西南側に樹木が生い茂る小山が見える。芝谷古墳である。

芝谷古墳は標高92mの日吉台丘陵の中央部に位置する全長約40mの前方後円墳である。

古墳の周囲は厳重にフェンスで囲まれており、墳丘に入ることはできない。

掲示板によると前方後円墳とあるがここからでは古墳の形状を把握することはできない。以前はフェンスがなく開放されていたのか、フェンス内には墳丘頂上部へ続く階段があるが、全く意味のないもののように感じられた。

日吉台丘陵の尾根上にあるため大きく見えるが実際は番山古墳前塚古墳より小規模な古墳である。

出土した埴輪片から4世紀末頃の築造と思われ、被葬者は、裏堂一帯を治めていた有力者と考えられている。副葬品や石室の有無は不明である。
この規模の柴谷古墳がなぜ前方後円墳なのだろうか。このくらいの規模の古墳であれば円墳か或いは帆立貝形古墳でもいいのではないかと勝手に思い込んでしまう。

4世紀末頃まではまだ盛んに前方後円墳が築かれていた時代で5世紀の初頭から古墳の規模が縮小していった。

大和政権下で身分的な要因からか起因するものなのか。或いは地域的なものに起因するものなのか。はたまた時代的なものに起因するものなのか。

時代的なものであれば築造年代が同じ古墳は全て同じ形になるので有り得ない。むしろ前に挙げた要因全てを加味して古墳の形状を決めていたのではないのだろうか。

折しも天皇陵と伝えられる古墳は前方後円墳が多く、この古墳も小さいながらも昼神車塚古墳前と同様前方後円墳である。

全くの推論ではあるが、同じくらいの規模の前塚古墳よりもこの古墳の被葬者のほうが身分が高かかったのではないのだろうか。

小規模ながらも形状が前方後円墳という点や高槻市教育委員会による厳重なフェンスにより古墳を保護している点などをあわせて考えみてもそんな気がしてくる。
この古墳はのどかな丘の上で静かに眠り続けている。



交通・アクセス

JR東海道本線(JR京都線)高槻駅下車 高槻市営バス JR高槻駅北 寺谷町行き 芝谷古墳前下車

 


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