古墳の所在地 | 大阪府高槻市上土室6丁目 |
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古墳の形状 | 前方後円墳 |
規模 | 直径40m、高さ3m |
築造年代 | 古墳時代の中期(5世紀後半) |
副葬品 | 円筒埴輪、盾形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪、朝顔形埴輪 |
被葬者 | 継体天皇の近親者や従者(推定) |
闘鶏山古墳(つげやまこふん)、番山古墳と西南方向に名神高速道路沿いに歩いてくると、フェンスに覆われたひときわ目立つ樹木が密生した小山がある。二子山古墳である。
この古墳は女瀬川と安威川に挟まれた土室(はむろ)という地域にあり、墳丘の一部が名神高速道路の下に潜り込んでいる。
まず最初に思ったことは、何故なのかわからないが神秘的な印象を受けたということだ。真夏の暑い日にここに訪れたのだが、古墳を発見した時になんだか背筋がゾクッとしたのを覚えている。
そして暑いのも忘れ、暫くその場所にたたずんでいた。
古墳は長年風雨に晒され樹木が密生し、人などの手により、一部または全部破壊されたものや原型をとどめているものまで様々であるが、この二子山古墳は墳丘部のカーブが綺麗に残っており三島古墳群でも原型を留める数少ない古墳である。
女瀬川、安威川に挟まれた奈佐原丘陵の最南端に位置するこの古墳は太田茶臼山古墳(継体天皇陵)の陪冢として宮内庁の管理下にあり、古墳そのものはフェンスで覆われおり、中に入ることはできない。
太田茶臼山古墳(継体天皇陵)の陪冢ということになっているようであるが、少し太田茶臼山古墳(継体天皇陵)と離れているような気がしないでもない。
墳丘の規模は約40mあり、前方部・後円部とも約20mある。後円部が前方部に比べ高くなっているようである。
フェンス越しによく見ると二子山古墳の名前の由来となった2つの墳丘が確認できる。
また墳丘の南側には造出しがあるようだが見えなかった。北側にも現在は削り取られているが同じような造り出しがあったようである。
墳丘の周囲には周濠、さらに外側には堤も備えていたようで、 円筒埴輪、家形埴輪、盾形埴輪、蓋形埴輪、朝顔形埴輪などが出土しており、墳丘には埴輪の並べられていたようだ。
JR東海道線 摂津富田駅下車 高槻市営バス 公団阿武山・日赤 行き 土室下車 |