古墳の所在地 | 茨木市西安威2丁目 |
---|---|
古墳の形状 | 円墳 |
規模(玄室) | 長さ4.5m、幅1.7m、高さ2.4m |
築造年代 | 古墳時代後期(6世紀後半) |
副葬品 | 不明 |
被葬者 | 藤原鎌足(推定) |
大化の改新(たいかのかいしん)で有名な藤原鎌足(ふじわらのかまたり)。
学校の教科書などでみな知っている名前である。
大化の改新(たいかのかいしん)は、西暦646年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)と藤原鎌足(当時は中臣鎌足)らが政治の実権を思うままにする蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、政治の実権を飛鳥の豪族から天皇中心の政治へと移り変えた事件である。日本で初めてのクーデターとも言われている。
後に中臣鎌足は藤原鎌足と改姓し、ここから平安時代に至るまで藤原氏の栄華が続くことになる。
その祖となったのが藤原鎌足である。
石段の脇には「大織冠神社」と彫られた石碑があり、さらに石段を登っていくと鳥居があり、その鳥居をくぐりまたさらに登って行くと、石段を登りつめたところに花崗岩を積み上げた横穴式石室がある。
玄室の長さは約4.5m、幅約1.7m、高さ2.4m、5枚の天井石が積まれている。入り口部分は鉄格子が付けられており、石室内部に立ち入ることは出来ない。
石室をとりまく円墳の規模はあまり大きくはなさそうだが、この古墳自体、山頂に築かれた古墳ということになり、この山全体が古墳ということになるのではないだろうか。そのことだけをとっても、この古墳の被葬者が尋常な身分のものでないことが伺える。
被葬者が藤原鎌足(推定)とのことだが、しかしながら大化の改新が646年(7世紀の中頃)、この古墳の推定築造年代が6世紀後期。この時点で50年以上の誤差があることになり、年代的な誤差は否めない。
また副葬品においては早くからこの石室が開口しており、何も無いのが現状のようである。
藤原鎌足(推定)の古墳とされているのはここの他に阿武山古墳などが挙げられている。
この古墳は山の頂きで悠久の昔から時を重ねそしてこれからも肥沃な耳原の農耕地帯を見下ろしながら静かに眠り続けている。
JR東海道線 茨木駅下車 阪急バス 茨木サニータウン行き 福井下車