古墳の所在地 | 大阪府高槻市上土室1丁目1-5 |
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古墳の形状 | 円墳 |
規模 | 不明 |
築造年代 | 古墳時代中期(6世紀) |
副葬品 | 馬具類や金銅製環頭柄、須恵器など |
被葬者 | この地域を治めていた豪族(推定) |
耳原よりさらに西国街道を西へ向かうと茨木市の西福井という地域に至る。
一面の田園風景が広がる中、一際樹木に覆われた小山が目に付いた。
海北塚古墳(かいほうづかこふん)である。
海北塚古墳は北摂山地の南斜面福井丘陵の南麓部に位置する古墳であり、形状は円墳のようだが規模は不詳である。
それだけ古墳そのものの状態は良くないようである。
この福井丘陵の南麓部に位置する古墳群の中では一番新しい古墳である。
一番古いものが紫金山古墳(前方後円墳 110m)が4世紀の中頃に築かれ、それから100年以上も同地に古墳の築造が見られない空白の時期があるのが興味深い。
5世紀の中頃になってようやく南塚(前方後円墳 50m)が築かれ、その後青松塚古墳(円墳 20m)、そして海北塚古墳(円墳 規模不詳)と継続的に築かれており、首長の系譜が保たれていたと思われる。
古墳の片側が全て畑に囲まれており、草をかき分け墳丘部に登ってみると墳丘部の盛土そのものがなくなっている状態で、横穴式石室が露出した状態であった。
玄室(げんしつ)の大きさは、直径4.2m、幅2.2m、高さ3.0m。この古墳は昭和45年に大阪府指定文化財史跡に指定されている。
石室を構成する巨石の間から竹が伸び放題になっており保存状態は決して良いほうではないようだ。
この石室部分で目を引いたのは、石室使われている巨石である。石の表面を加工したのだろうか。それとももともとそういう石なのだろうか、石の表面が非常に滑らかである。
資料によればこの石はこの付近では産出しない石で、四国の阿波から運ばれてきたものと推定されている。
これだけの巨石をわざわざ四国の阿波(現在の徳島県)から運んできたとなると相当な手間と労力そして莫大な費用がかかったことであろう。
出土した副葬品は「轡、鉄地金鋼製杏葉、金銅製雲珠、鞍金具、革金具などの馬具類や金銅製環頭柄、須恵器」などが出土した。 とくに金銅製環頭柄は、かなり装飾がほどこされた立派なものであった。
現在、出土した副葬品は東京国立博物館に保管され展示されている。
被葬者については出土している副葬品などから考えて、かなりの身分の者だと推定されるが、同規模の他の古墳同様、何も解っていないのが現状である。
少なくとも古墳時代の中期にこの地域に勢力を持っていた豪族の首長の墓だということは推定できる。
この古墳の石室は昔から子どもたちが遊びに使って親しまれてきたらしいと農家のおじさんが教えてくれた。
美しい田園風景が広がる福井丘陵の南麓部でこの古墳は悠久の時を越え、今も静かに眠り続けている。
大阪府指定文化財 史跡(S45.12.7指定)
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