古墳の所在地 | 大阪府茨木市耳原3丁目10 |
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古墳の形状 | 方墳 |
規模 | 直径33m、高さ5.5m |
築造年代 | 古墳時代後期(6世紀後半~7世紀) |
副葬品 | 須恵器の破片など |
被葬者 | 第17代履中天皇(推定) |
JR摂津富田駅より西国街道を西(神戸方面)に歩いて行き、太田茶臼山古墳を経て、さらに西に進んでいくと耳原(みのはら)という地域に至る。
ここは耳原と書いて(みのはら)と呼び、鼻摺古墳(はなずりこふん)は大きな池がある耳原公園の東側にある。
実際に訪れてみると一戸建ての住宅街真ん中にあり、古墳全体がフェンスに覆われており地元の教育委員会の管理下を示す柱石がある。やはり墳丘に入ることはできない。
看板によれば周濠を持つ方墳であったようだが、現在では現在では周濠を確認することはできない。
古墳の周りにある生活道路が周濠だったのだろうか。
被葬者については被葬者は第17代履中天皇とされているようだが全く定かではない。
天皇陵とあるが、この古墳自体には全くそんな感じはしない。本当なんだろうか。
築造年代の古墳時代後期(6世紀後半~7世紀)は徐々に巨大な前方後円墳が造られなくなった時期にあたり、この時期を古墳時代終末期と呼び7世紀に入っても日本各地で小型ながら方墳や円墳、八角墳などが造り続けられる。
つまりヤマト王権の確立後に中央政権が確立し地方への統治組織の仕組みが出来上ったことによるものだと推定される。
ちなみにこの古墳は耳原方墳といい他の三島古墳群に点在する古墳の中では形状において一線を画するものであるが、太田茶臼山古墳、今城塚古墳と天皇陵と思しき巨大古墳を見てきているのでそれが天皇陵と言われても俄かに信じがたいものがある。墳丘の斜面のあちらこちらに大きな石が露出している箇所があり、古墳の状態は必ずしも良いとはえない。
以前に大規模な盗掘があったらしく、埋葬品は殆どなく、わずかな須恵器の破片が出土したのみである。
この古墳は北摂山地より流れ出る安威川と茨木川に挟まれた福井丘陵部にあり、古墳時代の終焉期にあたり、これ以降は同地に大きな前方後円墳は全く築かれなくなった。
住宅街に囲まれ、この古墳は今も静かに眠り続けている。