古墳の所在地 | 高槻市上土室1丁目 |
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規模 | 4,163㎡ |
築造年代 | 古墳時代中期(5世紀中頃) |
出土品 | 埴輪 |
番山古墳からさらに北へ歩いていくと大きなマンション群が建ち並ぶ一角に出る。
閑静な住宅街が建ち並ぶなか、大きな池の脇に木々に覆われ整備された公園にたどり着く。
新池遺跡(ハニワ工場公園)である。
新池遺跡は古墳時代に古墳などで使われるハニワを製造していたハニワ製造工場の遺跡であり、その延べ面積は3万㎡の日本最古で最大級のハニワ工場である。
このハニワ工場が稼動していたのは、今からおよそ1500年前で、先に紹介した太田茶臼山古墳や今城塚古墳のためのハニワを数多く製造していたらしい。
ここのすぐ近くににある番山古墳築造の際のハニワもここで製造していたようで公園内には埴輪を焼いた窯の遺跡が18基あり、内2基を復元している。
公園の入口付近には様々なハニワ(レプリカ)が整然と並べられており、公園内の斜面には植え込みがあり、「第○号窯跡」と書いてある札がそれぞれの植え込みにあった。
これだけの窯がフル稼働してハニワを焼いていたのであろうか。この新池遺跡は日本最古のハニワ製造工場でその規模も最大級であった。
実際にここで造られたハニワの数は日本一だったろうと推定される。丘の上には作業小屋が復元されており、当時のハニワ製造の作業風景を偲ばせる。
丘の上にハニワ工場館があり、この遺跡で最大級の18号窯を覆屋で保護し、そこから出土したハニワ3点も展示している。
ここで製造された埴輪はおもに太田茶臼山古墳や今城塚古墳で使われたようである。埴輪には人、動物、家などさまざな形がある。
ここにハニワ製造工場があり、そこで働く人達の住居などもこの周辺にあったものと推定されるが、今ではマンションが建ち並び見る影もない。
実にたくさんの人がここで働いていたのであろう。
当時は生産性を高めるための機械などは当然無く、すべてが手作業で行われていた。
大量にハニワを生産するためには当然それを造る人の数に頼ならければならず一種の人海戦術的な方法で生産していたものと推定される。
この工場は約100年にわたり稼動していたが、530年頃に大型の前方後円墳が築かれなくなりそれとともにハニワ造りも終わりを告げた。
この場所に立っていると、当時この場所でハニワ造りに携わった人たちの息吹が聞こえてくるようである。
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JR東海道線 摂津富田駅下車 高槻市営バス 公団阿武山・日赤、日赤・公団阿武山、大阪薬大前、西塚原行き 上土室で下車。 |