古墳の所在地 | 大阪府高槻市古曽部町3-665 |
---|---|
古墳の形状 | 円墳 |
規模 | 東西16m、南北25m、高さ1.8m |
築造年代 | 平安時代中期 |
被葬者 | 能因法師/ 橘永愷(たちばな の ながやす) 永延2年(988年) ~ 永承5年(1050年)(推定) |
昼神車塚古墳より東へ20分ほど歩いていくと高槻市古曽部町という地域に至る。
長閑かな住宅地と田園風景が広がる中、その一角に樹木が生い茂った公園のようなものが見える。
能因法師墳(のういんほうしふん)がある。
この古墳は平安時代中期の歌人である能因法師の墓として伝えられている。
能因法師は本名を橘永愷(たちばなのながやす)といい、近江守 橘忠望の子で、その後その兄の肥後守 橘元愷の猶子となった。
三島古墳群のなかでは唯一の平安時代築造の古墳であり、いわゆる古墳時代築造の古墳とは一線を画する存在である。
形状は東西16m、南北25m、高さ1.8mの円墳とされているが、現存する墳丘部の盛り土から見るとその規模を確認することはできない。
また古墳特有の周濠が古墳の周りに廻らされていたかどうかもわからない。
墳墓の正面部には能因顕彰碑があり、そこに刻まれている碑文は儒学者林羅山のもので、当時の高槻城主永井直清(ながいなおきよ)によって建立したとされている。
芥川以東に位置するこの古墳は昼神車塚古墳などのグループとは全く違う存在であり、築造年代も古墳時代から平安時代と隔たりがある。
能因法師がここに移り住んだ理由については定かではないが、この地になんらかの愛着があったものと思われる。
やまざとの はるの夕ぐれ きてみれば
いりあひの鐘に 花ぞちりける
(新古今)
能因法師が不老不死を願って茶をたてるときに使用したとされる名水の井戸。
現在では飲用することはできないが、水が湧き出ている。
死期の迫った平安時代中期の歌人・能因法師が吟稿(和歌の原稿)を埋めたとされる場所。
能因法師が使用したと伝えられる名水の井戸。
この井戸は「山下水」の名前で能因法師の歌の中にも詠まれている。
大きな地図で見る |
JR高槻駅北口から北へ徒歩約8分、 突き当たりから東へさらに20分。 |