古墳の所在地 | 高槻市郡家新町 |
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古墳の形状 | 前方後円墳 |
規模 | 直径190m、総幅約340m |
築造年代 | 古墳時代後期(6世紀前半) |
副葬品 | 家形埴輪、武人埴輪等など |
被葬者 | 第26代継体天皇(推定) |
JR摂津富田駅より府道115号線を北へ歩いていくと、氷室町という地域に至る。またさらに北に進んでいくと右手に樹木が茂った小高い茂みが見えてくる。今城塚古墳である。
富田台地(高槻市内で唯一の台地。東西3km南北3kmの台地で周囲のかつては低湿地帯からの比高差は10~30m程である。古墳時代では南側に流れる大河淀川から派生する低湿地帯の中で唯一平地のなかで地盤がしっかりしている地域である。)中央部に位置し、西向きの前方後円墳であり、墳丘の長さは190mと壮大でる。
周濠まで含めるとその総長は350mにわたり同時代においては淀川流域最大級の規模を誇る。
墳丘の周囲には二重の濠と堤が廻らされており、葺石や埴輪を備える。
築造年代は6世紀前半とされており、日本書紀による継体天皇が崩御(531年)した時期と一致しており、この点についても興味深い。
盗掘などの被害により、副葬品や埋葬施設については不明だが、3基分の石棺を構成していたの石材および金銅製装身具などが発見されている。
前方部の環濠には一部水が張られており、現在は釣りが禁止されているが、公園化する前は釣り場として市民に利用されていたようだ。
高槻市では史跡公園として古墳の整備をし、環濠を芝生の公園として一般に公開しており、近隣住人の散歩道や休みともなると家族連れで賑わう市民の憩いの場となっている。
墳丘の荒廃が著しい原因は諸説あるが、一番有力な説は文肋5年(1596年)に起きた伏見大震災である。
この地震の影響により墳丘部や周濠部の盛り土が崩れの破壊されたものと思われる。
江戸時代、幕府より高槻藩に「藩内に御陵らしいものはないか」との問い合わせがあった記録が残っており、その記録によれば高槻藩は「御陵は無い」つまり王の墳墓は無いとの回答を幕府にしている。
そのくらい伏見大地震による倒壊で古墳と認識されないくらいまで今城塚古墳は崩れていたようである。
墳丘には後円部から前方部まで細い道がいくつかあり、前方部から後円部まで墳丘を行き来することができる。
後円部の頂上に立つと、何となくではあるが円形であることが確認できる。
これだけの規模の古墳で墳丘部に入ることのできる古墳は全国的にみても数少ないのではないだろうか。
古墳の被葬者は、埴輪等の出土物の年代的特徴や文献資料の検討などから、第26代継体天皇の墳墓と学界の定説になっているようだ。
また埴輪を生産していた新池遺跡(ハニワ工場公園)とも深い関わりがあったようで、新池遺跡で造られた埴輪が多く使われていたようである。
現在復元されている埴輪祭祀場には、家や人物、動物などのハニワ(レプリカ)が200点以上並べてある。
古墳の北東側には今城塚古代歴史館(高槻市)があり、この古墳の出土物などが展示してある。
先に紹介した太田茶臼山古墳は宮内庁の管理下にあり第26代継体天皇陵ということになっているが、出土物の年代的特徴や文献資料の検討により先に述べたように異論があるようだ。
太田茶臼山古墳はいくつかの陪塚(ばいちょう)が古墳の周りに現存するが、こちらの今城塚古墳の周囲には陪塚(ばいちょう)らしきものが見当たらない。
この古墳の築造された6世紀前半から大和政権のよる律令で陪塚や巨大古墳やがあまり築かれなくなったようである。
この古墳の北側に前塚古墳があるが築造年代の特定から今城塚古墳の陪塚でないことがわかっている。
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JR東海道線 摂津富田駅下車 高槻市バス 南平台経由奈佐原行きのバスに乗車 「今城塚古墳前」下車。 |