古墳の所在地 | 大阪府茨木市室山1丁目 |
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古墳の形状 | 前方後円墳 |
規模 | 全長約102m、後円部径約76m、前方部端の幅約40m |
築造年代 | 古墳時代前期(4世紀) |
副葬品 | 鏡、玉類、刀剣、鉄鏃、鉄製の鎌、斧頭、のみ、車輪石、鍬形石・筒形銅器、貝製の鍬形石など |
被葬者 | 不明 |
けいさつ病院の敷地内を北へ横切ると駐車場があり、その傍らに「紫金山古墳」と書かれた標識がある。
標識どうりにさらに進んでいくと、けもの道になり、かなりの傾斜がある。
けもの道を登り切ると腰長けくらいの草が生い茂った、少し開けた場所にでる。
ここが紫金山古墳の後円部にあたる場所である。(右写真)
三島古墳群の最西端に位置し北摂山地南斜面から派生する福井丘陵の麓部に位置し山の尾根沿い築かれたこの古墳は東向きの前方後円墳である。
全長約102m、後円部の径約が76m、前方部端の幅約が40mと巨大な首長墓である。
この古墳が築かれたのは4世紀中頃で、茨木川右岸のこの地域にその後100年以上も継続して古墳が築かれることはなく、6世紀の中頃になってようやく南塚古墳、青松塚古墳、海北塚古墳と継続して築造される。この点においても年代的に少しズレがあるものの、ここより東側茨木川と安威川に挟まれた将軍山古墳築造から鼻摺古墳築造までの空白期間に酷似している。
この空白の100年間になにがあったのであろうか。首長の系譜が途絶えたのか。
古墳の構造上、後円部から前方部にかけてかなりの傾斜があったのではないのだろうか。
しかし現在ではそれを確認することは全くできない。
掲示板のあるこの場所が古墳の後円部にあたる場所で、ここに南北方向に長さ約9m、幅約4mの竪穴式石室が発見されているが現在は埋め戻されている。
石室の内部からは玉類、刀剣、鉄鏃、鉄製の鎌、斧頭、やりがんな、のみ、車輪石、鍬形石、筒形銅器、貝製の鍬形石など実に多種多様のものが出土しており、この古墳が山頂部にあることから盗掘を逃れたのではないのだろうか。
当時の権力の象徴の鏡(かがみ)なども出土しており、被葬者はかなり身分の高い者だったことが伺える。
あらためて古墳と思われる周りを見渡すが本当にただの山である。どこにも古墳らしき場所を確認することができない。
この古墳の発見のきっかけとなったのは病院の施設を山頂部に建設する際に石室の一部が発見されたことにより、発掘調査が行われ現在に至っている。
どうしてわざわざ築造が困難な山の尾根沿いに古墳を造ったのだろうか。平地はなかったのだろうか。
それにはやはり権力の誇示が考えられるわけで、古墳時代の前期は主に山腹部や丘陵部に古墳を築く傾向がある。
より高い場所に権力の象徴である自らの古墳を造ることで死後も権力を誇示したかったのではないのだろうか。
話が少し飛躍するかもしれないが、この古墳の被葬者の子孫はどうなったのであろうか。
現代においてもそうだか当時は絶対的な世襲制であることはほぼ間違いない。
これだけの規模の古墳を葬られた被葬者の子孫も当然その地位と財を受け継いでいるはずである。
しかしながらこの古墳が築造されたと思われる3世紀中頃から100年以上この地域に同規模の古墳は発見されていない。
けいさつ病院内にある青松塚古墳 がそうなのか、或いは海北塚古墳がそうなのか、いずれも築造年代が開きすぎている。
子どもの代になって急に家が没落し古墳を築造できる地位と財力を失ってしまったのか。
また他国からの侵略で家そのものが滅んでしまったのだろうか。
ヤマト政権下で国替え的な事情によりこの地を去ってしまったのだろうか。
いずれも想像の域を出ない。
この古墳は滅多に人の訪れることのない、ひっそりとした山の中で、古墳時代より悠久の時を重ね今も静かに眠り続けている。
大阪府指定文化財 史跡(H14.1.29指定)
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