古墳の所在地 | 茨木市西安威2丁目 |
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古墳の形状 | 前方後円墳 |
規模 | 全長約107m、後円部径約70m、前方部端幅約44m |
築造年代 | 古墳時代前期(4世紀後半) |
副葬品 | ガラス製小玉、銅塞、銅鏃、鉄鏃、鉄剣 |
被葬者 | 不明 |
先に紹介した将軍塚古墳と隣接しているが、規模も築造年代も全く異なる別の古墳である。
同日に将軍塚古墳を見学し、そのまますぐ隣にある将軍山古墳を見学した。
前方後円墳とあるが、現在は宅地の造成などによりその原型を確認することは全くできない。
周囲をコンクリートで覆われ、金網で仕切られた竪穴式石室が見える。
この竪穴式石室は本来この古墳の後円部にあったものを実際の石を使って現在の位置に移設したものらしい。この竪穴式石室に使用されている石はこの地域では産出しない「結晶片岩」を用いられ作られている。
副葬品については早くから盗掘にあい、「ガラス製小玉」「銅塞」「銅鏃」「鉄鏃」「鉄剣」のみあった。
築造年代的は隣接する将軍塚古墳より200年くらい古い古墳ということになる。
安威川より西側の地域福井丘陵部の突端に位置する将軍山古墳は4世紀の後半に築造されたもので、全長が107mの前方後円墳である。
この古墳築造の時期を考えてみるに、全国的にはそんなに大きな古墳ということにはならないが、安威川より以西の地域では紫金山古墳に次ぐ規模を誇る。
訪れてはいないが同じくらいの時期に築造された安威0号墳(円墳)と1号墳(前方後円墳)があるようだ。
またいつか訪れてみたいと思う。
この安威川より以西側の福井丘陵部の古墳群は奈佐原丘陵部にある古墳群とは違い、同地域において古墳の築造が継続的に行われていない点である。
5世紀の初頭から6世紀頃まで古墳築造が実に100年以上にも渡り途絶えている。
6世紀の後半になってようやく鼻摺古墳(耳原方形墳)が築造され、次いで耳原古墳、初田古墳と小型の首長墓が継続的に築かれているが、この空白の期間は何を意味するものなのか。
知るよしもないが推測するのであれば。
といろいろと推測はできるが、全く想像の域を出ない。
同じような古墳築造の空白時期はさらに西側にある紫金山古墳のある地域でも起きている。
蝉の声が反響する真夏の昼下がりに、大織冠神社の山頂でひとり、じっとそのことを考えていた。
JR東海道線 茨木駅下車 阪急バス 茨木サニータウン行き 福井下車