古墳の所在地 | 大阪府茨木市太田3丁目 |
---|---|
古墳の形状 | 前方後円墳 |
規模 | 直径226m、高さ20m |
築造年代 | 古墳時代中期(5世紀前半~中頃) |
副葬品 | 円筒埴輪等、他多数出土 |
被葬者 | 第26代継体天皇 |
JR摂津富田駅より西国街道を神戸方面に歩いて行くと高田町に出、さらに進むと東太田4丁目の交差点にあたる。さらに100mほど行くと太田茶臼山古墳の前方部に出る。
全長約226mの前方後円墳で墳丘は3段に築かれている。古墳のくびれ部分両側にはいわゆる造出しが設けられており、古墳の周囲は2重の濠に囲まれており、壮大である。
太田茶臼山古墳は宮内庁の管理下にあり、第26代継体天皇の墳墓とされている。
しかし、最近の調査で出土物などの年代的鑑定から、高槻市にある今城塚古墳が継体天皇陵ではないかという説が持ち上がっているようだ。
この古墳は宮内庁の管理下ということで、古墳に入るどころか遠くからしか見ることができない。
築造年代は古墳時代中期(5世紀前半~中頃)頃とされている。円筒埴輪や形象埴輪、須恵器など多数が出土している。
古墳の外周には堀が水を満々と湛え、迫力がある。古墳の周りを一周しようとしたが、建物などに阻まれ結局古墳の北東側しか見ることができなかったが、古墳の周りをうろうろ歩き回っているといくつかの陪塚(ばいちょう)を発見することができた。
先に紹介した二子山古墳もここの陪塚(ばいちょう)とされているが、距離が少し離れている。
藍野病院のすぐ脇にある公園の中にある。
陪塚①は公園のほぼ中央部に位置し墳丘には木が密生しており、綺麗な円形している。
直径は目算で10mといったところか。高さは2、3m。陪塚の周囲は全てフェンスで厳重に覆われており、中へ立ち入ることは無論できない。宮内庁と彫られた柱石がある。
いったい誰の墓なのだろうか。陪塚とは大型古墳の被葬者の親族や臣下を埋葬したり、被葬者のための副葬品を埋納するために建設されたものであると考えられている。被葬者についていろいろと調べてはみたが、全くわからなかった。そんな思惑をよそにこの陪塚は5世紀の中頃から悠久の時を越え、現在も静かにここに眠っている。
|
1から北西へ60m程行くと道の真ん中に植え込みらしきものが見えてくる。
一見すると本当に植え込みに見えるのだが、よく見ると道路が植え込みを避けるように付けられている。違和感を覚えた。この植え込みが陪塚②である。
先ほどの陪塚①のようにフェンスもなければ宮内庁の柱石もない。なぜなのか。
それから陪塚の形状である。二子山古墳を除き現存する3基の陪塚はみな綺麗な円形をしているが、ここは北西から南東方向に細長い形状をしていて円墳には見えない。いったいなんなのか。
|
大きな地図で見る |
JR東海道線 摂津富田駅下車 高槻市営バス 公団阿武山・日赤 行き 土室下車。 |